横浜地方裁判所 昭和42年(ワ)649号 判決 1969年3月04日
被告 東京銀行
理由
一、昭和三六年四月七日原告会社と被告銀行(横浜支店、以下同じ)との間に当座勘定取引契約が成立し、被告銀行は原告会社振出の小切手を原告会社の被告銀行に対する当座預金から支払をなすことを委託された事実については当事者間に争いがない。《証拠》によれば、原告会社はその振出にかかる約束手形、小切手の署名照合のため、あらかじめ原告会社代表者等の署名を記載した署名鑑を被告銀行に提出している事実が認められ、右事実及び当座勘定取引契約の性質からすれば、被告銀行は原告会社振出の小切手の支払については原告会社の提出した署名鑑記載の署名と小切手上の署名とを照合し、両者の符合することを確認したうえで支払人として原告会社のために該小切手の支払をなす義務を負担したことが推認される。
二、被告銀行横浜支店が昭和三二年三月一日原告会社経理担当の従業員訴外中沢悦子から原告会社振出名義の金額金七〇〇、〇〇〇円の小切手(小切手番号Y〇二八三八一)(以下本件小切手という。)の呈示を受けてその支払を求められ、同日原告会社の当座預金から同金額の支払をなしたことについては当事者間に争いがない。
《証拠》によると、本件小切手は原告会社代表者名義で作成されているが、右作成は原告代表者の意思にもとづかず、木下正子こと中沢悦子が堀井宏と共謀して原告会社備付の小切手用紙に原告会社記名印を冒用し、これに堀井宏が原告代表者の署名を偽造し、これに所要の小切手要件を記載して作成した偽造小切手であることが認められ、右認定に反する証拠はない
三、そこで被告の抗弁一について判断する。
原・被告間には、原告会社と被告銀行との取引につき特に定められた事項のほか日本の銀行慣習ならびに取り扱いによるとの約定の存在することは当事者間に争いがない。
《証拠》を総合すると、被告銀行では通常顧客との間に当座取引を行う場合は被告銀行所定の当座勘定契約書を作成し、右契約書には「お届出の印鑑(または署名)と照合して当行が相違ないと認めお支払いをし、または支払保証をした以上は、その小切手、手形、小切手用紙または印章等について紛失、詐取、盗難、偽造、変造その他いかなる事由があつても当行はその責任を負いません。」との約定の記載のあること、我が国の銀行取引においては銀行所定の小切手用紙を使用して偽造した当座小切手についてその取引銀行が相当の注意をしても偽造の署名がきわめて巧妙でその真偽の判定がむずかしいためその小切手が偽造であることを知ることができないで支払つた場合には、その損失は銀行の責任を免除する旨の特約の存否にかかわらず支払銀行は負担しない旨の商慣習のあること、また銀行における署名の照合に際して、署名は署名時における署名者の精神状態、健康状態、運動の前後、姿勢、使用用具等のいかんにより字形、筆勢、筆圧等はその都度変化する性質のもので、また同一人が署名しても長年月を経過すれば当初のものと比較して多少なりとも変化する場合もあり、従つて銀行備付の署名鑑と当該小切手の署名との照合により署名の真偽を判定することは屈出の署名鑑と完全に同一のものはほとんどないため必ずしも容易でなく、署名鑑と小切手の署名の字形、筆勢、筆圧に多少の相違点があつても、自行交付の小切手用紙を使用しているか、事故届出の有無、最近の小切手に使用された署名に類似しているか等の諸事情を参酌して真正か否かを判断しているのが銀行取り扱いの実情であることがそれぞれ認められている。
四、右に認定したところから考えると、右当座勘定契約書の約定および商慣習は、結局銀行が小切手の真偽を判断するについて銀行業者として相当の注意を尽くした場合には偽造小切手の支払をしても銀行の責任が免除されることを明らかにしたものであつて、その注意義務の内容は具体的事例によつて異なり、必ずしも画一的ないしある特定の事項にのみ注意義務を果したというだけでは足りず、またこの反面特定の事項につき銀行業者としての注意に不充分な点があつたとしても他の事項につき相当の注意をなし、右不充分な点につきやむを得ないと認め得る特段の事情のあるときは、右特定の事項についての注意義務が軽減される場合もあると解すべきである。
そこで、本件小切手を取り扱つた被告銀行係員が銀行業者としてなすべき相当の注意をもつて本件小切手の真偽の判断をしたかどうかについて考えるに、《証拠》によると、原告届出被告銀行備付の署名鑑にある原告会社代表者の署名は運筆速度は速く、筆圧に強弱があり、画線は円滑性を有しているにかかわらず、本件小切手上の署名は運動速度が遅く、筆圧に強弱がなく、画線に円滑性が認められず、また筆勢は渋滞して画線上に震え等の現象が表現されており、署名の照合に練達している者の立場では偽造の判定が容易であるが、通常一般人の判断では両者を比較して真偽の判定が困難であることが認められる。ところで、当座取引において銀行が顧客の署名鑑を届出させることは、右署名鑑記載の署名と小切手の署名とを照合してその真偽判定の資料とすることにあるから、小切手の真偽の判定には署名の照合に重点が置かれ、署名の照合においてはこれに熟練している銀行員がその職務上要求される十分な注意をもつてなされなければならないというべきであるが、一面前示のような署名は印鑑の場合と異なり完全に同一なものはほとんどなく、署名時の状態等により変化する性質のものであることが明らかであるから、本件小切手の署名が偽造であることを看過したことにつき被告銀行係員にやむを得ないと認むべき特段の事情の有無についてさらに検討を要する。
五、本件小切手の偽造、行使およびその支払にいたつた経緯について考えるに、《証拠》を総合するとつぎの事実が認められる。
(一) 原告会社はラジオ、光学製品の輸出を営む貿易商であるところ、昭和四二年一月下旬頃新聞に経理担当の女子事務員募集の広告を出し、同年二月三日頃右広告を見て募集に応じた木下正子こと中沢悦子を履歴書の珠算二級、簿記一級との記載を信用しそのまま身元確認につきなんらの方途もとらず採用し、経理事務を担当させた。
(二) 右中沢は原告会社に勤務する以前昭和四一年一二月から昭和四二年一月にかけ東京都中央区の有限会社蘭免ん本店、大宮市の株式会社カネヨシ、武蔵野市の株式会社秦商店、川崎市の株式会社梅沢商店、横浜市中華街の萬珍楼とつぎつぎと偽名を使つて勤務先を変え各勤務先で現金、小切手を窃取し、これらの金員により堀井宏と同棲していたが、原告会社にもその本籍、住所、経歴、氏名を詐称して入社し、経理事務を担当しながら小切手窃取の機会をうかがつていた。
(三) 右中沢は、原告会社の経理係として原告会社備付の小切手帳に触れる機会を持つようになり、原告会社代表者が緑色のインクのサインペンを使用して小切手に署名すること、および当座預金の残金額についても良く知つていた。右中沢は、昭和四一年二月一五日頃原告会社代表者から署名を受けた小切手を複写機を用いて複写し、その小切手偽造の際の原告代表者署名引き写しの用意をし、被告銀行へも会社の用事で二、三回行き同銀行員との面識も出き、同月二五日には原告会社従業員の給料支払のため原告会社代表者振出の金額二八三、七六一円の小切手を被告銀行に呈示してその支払を受けたこともあつた。右中沢は同月二八日原告会社事務所において機を得て被告銀行が原告会社に交付した小切手帳から小切手用紙一枚を切り取りこれを窃取し、右用紙の振出人欄および裏面に原告会社備付会社記名ゴム印を押し、横浜市中区国際電報電話局で右小切手用紙の金額欄に「SEVEN HUNDRED THOUSAND ONLY 700,000」振出日欄に「1st,MAR」とそれぞれ同局備付のタイプライターで記入し、さらに堀井宏が右用紙にかねて中沢が用意していた原告代表者の署名の複写を緑色のサインペンで写し取り、原告会社代表者振出名義の金額七〇〇、〇〇〇円の本件小切手一通の偽造を完了した。
右中沢は、翌三月一日あらかじめ被告銀行横浜支店へ通常原告会社が小切手金払戻に際し行なつているように原告会社から金七〇〇、〇〇〇円を受け取りに行く旨電話で連絡したうえ、同日被告銀行横浜支店へ右偽造の本件小切手を呈示して同銀行係員永沢英男から金七〇〇、〇〇〇円を原告会社預金払戻名下に交付を受けた。
(四) 被告銀行係員永沢英男はあらかじめ電話連絡を受けた原告会社経理係員である木下正子こと中沢悦子から本件小切手の呈示を受け、右小切手が被告銀行制定のものでその小切手番号も原告会社へ交付した小切手帳のそれに符合して重複しておらず、金額欄の記載に改ざんおよび振出年月日の記載等に異状がなく、原告会社から事故届も出ていないこと(これらの事実は当事者間に争いがない。)を確認し、右小切手金額が当座預金額内であること、振出人欄の原告会社記名印、原告代表者署名を照合した結果記名印が同一で署名も他に例が少なく原告代表者が常に用いる緑色のインクでなされ、署名鑑の署名と同一のものと判断したうえ小切手金を支払うにいたつた。
以上の事実が認められる。
六 以上認定の事実から考えると、本件小切手の偽造、行使の方法は巧妙で、しかもこの偽造行使が原告会社経理係員によつて行われており、通常経理係員はその職務の性質上現金、小切手を取り扱うことが多いからその不正行為を防止するためその選任、監督には当該事業主が充分の意を払つていると考えるのが当然であり、これが不正行為を行うということは第三者にとつて普通考えられないことであり、本件小切手については原告代表者の署名を除いては正常でなんら疑念を抱く余地のないものであつたから、被告銀行横浜支店係員がこれらの事項を調査確認し、また原告代表者の署名も同色のインクでその形状等も酷似し、しかも鑑定人伊達良治の鑑定の結果および証人永沢英男の証言により認められる原告会社代表者の署名が画一性、恒常性にとぼしくその時により変化するものであることを考え合わせれば、署名鑑と本件小切手の署名の真偽の判断について被告銀行係員に署名照合の練達者としての注意義務に不充分な点があり、このため署名の偽造を看過したことについてやむをえないと認むべき特段の事由があり、従つて被告銀行係員は銀行業務上要求される相当の注意をもつて本件小切手の真偽を判断したものというべきである。
七、そうすると、被告銀行の小切手金の支払は、前示商慣習によつてその責任を免除され、その損失は振出名義人である原告会社が負担すべきものということができる。
以上の次第であれば、原告の本訴請求はその余の点の判断をするまでもなく失当としてこれを棄却。